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近況ながら日記など。 [日記]

この三か月ほど旅ブログ更新が途絶えておりました。

申し訳ありません。

とういうのも
暇を持て余した旅ブログがいつの間にか仕事も忙しく成り、私生活でも忙しくなったので更新も精一杯になっていました。

実は恥ずかしながら、GW前あたりからネットを通じて知り合った彼女ができていたのですが、とある事情で別れることになったのです。

彼女のことはそう話は言えないのですが、少々身内にトラブルを抱えた子だったのですが、それが自分をも巻きこむ恐れがあったので、怖くなったので別れることになったのです。彼女自身もこちらの要求に応えられない不器用な子だったわけですが、僕にも何かしら悪いところはあったと思います。恥ずかしながら初めての彼女だったし、年も考えて結婚を意識した付き合いだったのですが別れることになりました。

旅ブログは一応15年の旧満州旅行は終わらせるつもりです。
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ブログ引っ越し先 [日記]

実はネットの契約内容の間違いで大変面倒なことになってしまい。メールアドレスが変更になったので急きょブログも引っ越しと相成りました。

前ブログは『白々しき趣味文化人』です。

今考えてみるとものすごいタイトルだな~。皮肉ったタイトルをと考えた覚えがあるけど『笑いの文化人講座』からとった部分がある。

引っ越しの合間に2007年頃の日記や記事など読んでみたり。
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中国旧満州日本史跡の旅 [日記]

旅行から2週間経ちました。今回の旅はほとんど中国東北部の1932年~45年当時、満州国があった日本の史跡の旅でした。
20世紀初頭のこの地域は日本、中国、ソ連、朝鮮、モンゴルなど、国家の策略に事件、紛争とう混乱渦巻く重々しい時代でもありました。
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旅の工程は大体に大連→哈爾濱(ハルピン)→長春→瀋陽→丹東→大連でした。
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2011年に温州市で起こった鉄道衝突脱線事故で有名になった中国版新幹線CRHの現在は平穏そのもの。当時は事故後の政府対応に驚愕した人も多いのでは?
旧正月も終わって混み合いもなし。駅は巨大でオープンな作りだが車両が到着してからでないとプラットホームの中には入れない作り、金属探知機あり。磁気チケットかと思ったら『モギリ』だった。
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ハルピン市内は現在マンション建築ラッシュでガイドさん曰くここ5年程で見たこともないスピードで高層マンションが建っているという。筍のように驚きの成長だが敷地に密集していてなんだか危なっかしい。中国の3年間のコンクリート使用量はアメリカの100年を超えているという。
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聖ソフィア大聖堂。日露戦争後2年後の1907年にロシア人商人の出資によって建築。ハルピン市内は洋風建築も相まって異国情緒が漂う中国でも異質な空間。
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スターリン公園を歩く中国人民解放軍、陸軍の恰好をしているが消防の訓練で駆り出された一般市民も混じっている様子。おばちゃんも若い子もいたし、この列後方から普通の恰好をした市民も行進していた。
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ハルピン市内の歩行者天国の人混みは凄かった。スリが多いと気をつけていたが海外ではどこでも注意が必要。ファッションも特に変とは思わないが色は派手なものが多い。これも海外では当たり前か。
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ハルピン駅外観。シベリア鉄道から東清鉄道へと延びる線はここハルピン駅を中継する。ここで1907年、初代内閣総理大臣、伊藤博文が安重根によって暗殺される。韓国政府により、駅の隅に安重根義士記念館が最近になって完成したが、中国の若者にはほとんど知れず、日本の抗議や中国政府の許可云々などで現在閉鎖中。
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満州の首都があった新京(現在は長春)の満州国映画協会。『日満親善』、『五族協和』(日、満、露、朝、蒙)、『王道楽土』を謳った国策映画を数々排出。李香蘭(川口淑子)は当時の看板スターだったが2014年に亡くなる。
映画協会の第二代理事に甘粕正彦(元憲兵隊隊長、関東大震災のドサクサに白色テロを起こした右翼。陰で満州国を日本政府の意に応じて実質的に支配していたとも。)は二階中央の局長室から社員の出社を監視していたという。実際はスタッフや俳優に優しく評判はよかったらしい。
現在では長春電影制片廠になってここでも政府の審査が入る映画が配給されるようになった。
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長春、満州国当時は新京の東本願寺。現在は敷地内が駐車場にされているが国の文化財保存指定が決定され、これから修復工事がなされる様子。だが、こういった日本史跡は共産党政府から煙たがられる存在なのは中国どこでもそうだという。
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中国では総じて満州は偽満と表記されるがここは偽満州国皇帝溥儀の仮御所。溥儀の住む場所と聞くと広大なものと思ったが使いやすいようにまとまった印象を持った。ちょうどウイグル系の観光ツアーが来訪中だった。
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世界遺産の瀋陽故宮博物館の玉座。初代清国皇帝モンゴル系のヌルハチと二代目のホンタイジの故宮で規模は広いがそれほどでもない。モンゴルのゲルの様式と中国の建築が混ざっている。
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北朝鮮との国境の街、丹東、旧安東。朝鮮戦争時は北朝鮮を後援する中国軍の軍事物資がこの鴨緑江断橋を渡って輸送していたが、米軍がこの橋を空爆、橋は落ちて復旧間もなく停戦。列車の単線橋だったので複線橋を隣に作り、落ちた橋はそのままになった。
現在では中国各地から北朝鮮の国境を見に来る観光地。中華人民共和国が建国されてすぐの戦争なのでもちろんここは重要な場所でもある。遊覧船にも乗ったが中国の建築ラッシュに北朝鮮の殺風景な違いが印象的だった。
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中国と北朝鮮の国境は鴨緑江で別れているが近いところでその幅10m。『一歩跨』は最も近い国境。中国人民解放軍の兵士が近くで監視がある中、向こうの北朝鮮側でも遠くに監視塔から脱北者がいないかこの国境を監視していた。最近でも脱北兵士の殺人事件が起きているので双方警戒している。
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日露戦争では最激戦地の203高地は実際は206m。砲撃の激しさから3m低く成り、山の形が変わったという。あれから丁度110年、現在では植樹されて緑が生い茂り、頂上から旅順港は見れるが見晴らしはよくない。右の道に戦死した乃木将軍の次男保介の墓があるらしいが時間がなく、見れなかった。ロシア人、中国人もほとんど来ない日本人だけがよく来る観光地。画像は旅順港のある東側。
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日露戦争の一番有名な写真、乃木将軍とステッセル将軍の水師営の記念写真は旅順港から近い中国人農家の敷地を囲う石垣だった。この水師営の会見場は再建されたものだが歴史的写真の一枚の場所に立つのは改めて感動した。現在はナツメの木が植えられている。これも4代目とか。上の画像の撮影日が2015年5月31日。下が1905年1月5日。
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満州国崩壊でそこで暮らしていた日本人の引き揚げ者はここ大連港第三ふ頭の桟橋から復員船で出発。3日かけて舞鶴、下関港に向かってようやく日本の地を踏んだ。朝鮮経由もあるがその数数十万。
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大連、ヤマトホテルの高級応接室。満鉄の経営で莫大な富を持って作られた豪華絢爛な建築内装で現在でも共産党員がレストランで会食するところでもあるが、ここは何かと反日のはけ口にはされない。写真撮影は制限されることもあるが、特に人を撮るなといわれた。(共産党員と癒着している人物がバレるので次の日には圧力で逮捕されることもあるという。)
江沢民も村山総理も座ったという会見の場でもある。

以上で大体の旅行工程です。毎日の中華料理に飽きたこともあったけど、そこはさすがの中国。どれも食べれないほどではなかった。
日本と中国の関係はやはり満州が重要だったわけですがそんな中国東北部の旅でした。
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明後日には中国に。 [日記]

明後日には中国東北部に行きます。

2013年6月のウズベキスタン旅行記はなんだかんだと2年かかりました。その間に2014年6月のスロベニア・クロアチア旅行記も始まってもいないのに、次の旅行に行きます。ひどく遅いと思われるでしょう。何も進んでいないとね。

次は中国です。


中国で一番行きたかった場所は旧満州でした。日本は過去の歴史上数回にわたってこの肥よくな土地を巡って大陸中国と争いを繰り返しましたが、それに関するツアーが今回は主です。
行ってみよう、ハルピン、瀋陽、長春、奉天、大連、二百三高地。

『二百三高地』1980年予告

NHK映像の世紀

『ラストエンペラー』1987年

『支那の夜』1940年 李香蘭

アドリア海の真珠 [日記]

さっそく1ヶ月以上放置のブログ主。

仕事が多忙につき休む暇もなく、ログインの仕方を忘れてさぁ困った。

ようやくIDを思い出して入力。ぼちぼちアップしていきます。
ウズベキスタン旅行記前にスロベニア、クロアチア旅行記の料理編までを先にUPしていこうかと思います。

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今までの旅行記ではメインカメラにMINOLTA SWEETという一眼フィルムカメラにTAMRON 28-80mmマクロレンズでMF撮影していました。そしてサブに暗い場所、近接撮影用にCanon IXY Digital 910ISを利用していました。

今回は画像の二台、FUJIFILM X20というコンデジをメインにサブをFUJIFILM KLASSE-W(コンパクトフィルムカメラ)にし、もしもの時の撮影用にCanon 910IS(コンデジ)の三台体制にしてみました。コンデジなのに一眼っぽいスタイルのX20には購入当時からワクワクしていましたが、撮影はやはり使い慣れていなかったせいで少し不本意です。それにこのX20の特徴である、バッテリーの持ちが非常に悪く、スペアをもう二つ用意して旅に持っていきました。

ショルダーバッグに3台のカメラを持ち歩きながらの撮影はスマートではなかったと反省。でもフィルムでも撮影したいし、これからはこの三台が旅カメラになるかな~と。

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スロベニア、首都リュブリャナのリュブリニャツィ川。向こうは三本橋。

クロアチアについたがさっそくお昼を食べてスロベニアに入国。スロベニアはEUに入って通貨もユーロ。今回の旅ではクロアチアの通貨クーナと、ユーロに物価計算で円変換したりで、買い物の計算がえらくややっこしかった。
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スロベニア北部、ブレッド湖の中にはスロベニア唯一の島、ブレッド島。そこある聖母被昇天教会。風光明媚とはよくいったもの。自然と溶け合う素晴らしい教会の佇まい。アルプスの山々が見える湖畔の美しさ。エメラルドグリーンの水色はバクテリアによるもの。美しさに見とれてあまりいい写真が取れなかった。
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ポストイナ鍾乳洞。ヨーロッパ最大の鍾乳洞。全長は分かっているだけで20数km、一般公開は5km程度。とにかく広く、大きな地底の空間に神秘的ロマンがあふれている。
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クロアチアに再入国後のスプリットの街、山側。スロベニア、クロアチアと自然の美しさが印象的だった。
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知らなかったがボスニア・ヘルツェゴビナはクロアチアに挟まれてアドリア海に抜ける場所がある。ドブロヴニクは飛び地で、このボスニア・ヘルツェゴビナ国境の町、ネウムを通らないといけない。クロアチアとボスニアの両国関係はそれほど悪いものではないので国境の税関はそれほど厳しいものではない。ボスニアの方が物価が安いのでクロアチアからわざわざこちらに入国して買い物をする人も多いらしい。ボスニアはここの地域だけユーロで買い物もできる。
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ドブロヴニク観光前日に泊まったホテルの窓から。
アドリア海の素晴らしさとは波がほとんど立たない静かな海岸。磯臭くない。漂着物がない。入り江がたくさんあって小さなプライベートビーチが多数ある。海産物が豊富。まさにリゾート地といった印象だがゴテゴテした建築もないので落ち着いた雰囲気がある。
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少し離れたところからアドリア海の真珠、世界遺産ドブロヴニクの街並み。劇作家バーナード・ショーは1929年にここを訪れて「この世の楽園を見たければドブロヴニクを訪れよ。」と賛辞を送ったという。中世からラグーサ共和国がこの地を海洋貿易で発展させた。城壁に囲まれた歴史的街並みは青いアドリア海と相まってとても美しい。
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ドブロヴニクを見下ろせるスルジ山の頂きには戦争展示館がある。世界の観光客が魅了したドブロヴニクも1991年にはユーゴスラビア崩壊に合わせてクロアチア独立を反対する旧ユーゴ派(セルビア勢力)が激しい砲撃を浴びせて街は破壊された。元は同じ国の人間で言葉もクロアチア語、セルビア語も方言程度でしか違わない。セルビア勢力のT-34/85戦車(第二次大戦中のソ連製戦車。生産数が多いので冷戦中東側国家に安価で輸出された。)を撃破したクロアチア独立派の兵隊。こういった記念写真もみなピースサインで笑顔で写っているのが辛い。
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モンテネグロに入国後、世界遺産コトルの街。以外と知られていないが日本とモンテネグロの関係。実は100年近く戦争状態だったという驚きの事実。

1904年の日露戦争。大国ロシアと弱小日本の戦争勃発では日本の奇跡的な大勝利で、当時ロシア勢力拡大に憤慨していた国々が日本の勝利に湧いた。しかしそんな大国ロシアに追従して独立を保っていた小さな国家がモンテネグロだった。国際法上日本に参戦していながらも講和会議ではモンテネグロは出席を忘れ去られ、第一次大戦が勃発のゴタゴタからユーゴ編入、第二次大戦、チトー独裁、解体後独立したのは2006年だった。

今回の旅は自然の美しさ、歴史的な街並みの美しさとも味わえて実に贅沢な旅でした。そしてなんといってもアドリア海の海の幸、オンシーズンの収穫されたばかりの農作物の美味さ。観光にも力を入れてるリゾート地。素晴らしい旅の一言でした。
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間に合わなかった… [日記]

ウズベキスタン旅行からもう一年経ちますが、旅行記が終わりません。
こんなにかかったのは初めてです。

昨年から今年は忙しかったか?と思うことは多々あるのですがフィルムスキャンは相変わらず進まず、
色調整もしているので、スキャンの残っているフィルムがまだまだある状態です。

それなのに、先の旅行が決まっていました。







今度はクロアチアです。



クロアチアの歴史
第一次大戦後はオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊により、セルビア王国の提案でユーゴスラビアとして独立。セルビアとの連邦国家形成では政治はセルビア人にコントロールされているとクロアチア人の不満が募り、クロアチア民族主義団体『ウスタシャ』が1941年に反独クーデター鎮圧する名目でナチスドイツを支援。『クロアチア独立国』を形成。これがセルビア人の反感を買い、これが1991年のクロアチア紛争のきっかけとなる。

映画で『セイヴィア』、『ボスニア』、『ウェルカム・トゥ・サラエボ』、『ノーマンズ・ランド』とボスニア紛争を描いた作品を見ているのでバルカン半島の悲惨さは身に染みて感じる。坂口尚の『石の花』(舞台は第二次大戦)という漫画も必見。最近では観光地として注目を浴びているようだ。



イタリアとアドリア海を挟んだ美しい国。それがクロアチア。

マルコ・ポーロはクロアチア人だそうだ。
http://youtu.be/o1vddEGVX8Y
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ウズベキスタンから帰国 [日記]

数日前に帰国しました。

帰国中の機内で気分が悪くなってトイレで吐いて、食欲のわかないまま日本に到着後、マンションに戻って熱を計ると38度6分と風邪でもこんなに上がることないぞと驚いたものですが、次の日起きると7度2分。疲れによるものかタシケントの熱波をそのまま持ち帰ったのか不思議なものです。



税関抜けるときにサーモグラフィーやってたのに大丈夫だったのかよと。



ウズベキスタンってどこにあるの?と職場の人からよく聞かれました。

どこってそりゃ「アフガニスタンの北…」と言ったら紛争地域とイメージがついてしまいます。中には「~スタンとつくところ戦争をやっているイメージがつく。」という話も聞きました。

でもウズベキスタンは行って判りました。大変美しい国だと!
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主要都市はオアシスの居留地がそのまま都市になったようで緑も多い。砂嵐はあるようだが暴風雨はないようで背の高い樹が生い茂って日影が多くできてて涼しい。第二次大戦後、ソ連軍の捕虜となった日本人はソ連邦国内の至る所に抑留された。回りまわってウズベキスタンにも多数日本人が送りこまれ、インフラ工事の労働などに従事された。ここで帰国前に亡くなった日本人墓地の石碑。ウズベキスタン各地にも日本人墓地がある。
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砂漠に昇る朝日や沈む夕陽は美しい。
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まず目にするのは素晴らしい色彩柄の刺繍や染め物。鮮やかでシックなものもあって飽きさせない。
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絨毯はザクロから取った色素で赤く染めた絨毯がほとんどだが私はとても欲しくなった。
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イスラム教国ではあるのですが、旧ソ連邦から独立してもロシアの影響が大きく、女性も男性も服装は至ってヨーロッパ風です。男はハーフパンツにt-シャツ姿でも何もとがめられない。女性は肌を出すのは一部のロシア系国民ぐらいだそうですが、それでもウズベク人は世俗的な人がほとんどです。地方にもよりますがワンピースにスカーフ、日傘で出かけるのが多い様子。そのワンピースやスカーフも伝統の染め柄や刺繍で飾った素晴らしいものです。イスラム教の熱心な家庭ではちゃんと髪も隠すこともあるが最近その原理主義の動きも国内にあるとか。
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治安の良さは色々あると思いますが、観光客が現地の人で一杯のバザールに入っても身の危険を感じないという所も素晴らしいところでした。スリや強盗もないわけではないという話ですが、私はとても安全な印象を受けました。
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ウズベキスタンの通貨so‘m(スム)はこの時日本円で約0.05円。レートにもよりますが1000スムで50円程。この国の高額紙幣が1000スム。ガイドさんに30USドルを渡すと66000スムに両替してくれた。となると財布の中に66枚もの札束は全部入りきれない。マネークリップが逆に便利だったのではと思ったけど夜な夜なスムの残金計算するのに札勘をやる。金銭感覚がつかめないが客商売をやる人たちはこの札を数えるのがうまい気がする。お土産屋ではUSドルが使える店がほとんど。食品、飲み物にはスムを使う。

1.5Lのミネラルウォーターが1000~1200スムぐらいかな。

ウズベキスタン他、中央アジアは茶碗の口が広がってあるタイプの茶碗が伝統だそうで、ご飯茶わんのスケールの小さいような形がとても親しみを感じる。これでコーヒーも飲むが一般的に紅茶、ほうじ茶が好まれこている様子。食後には必ず出た。
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サマルカンド、レギスタン広場のナイトショーにて。
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ただ6月末は一年で一番暑い季節だそうで最高気温45度。場所によれば気温50度にもなる。観光初日のタシケントで一番疲れた。日差しもギラギラと差すように痛い。

フィルム写真は36枚撮り18本で648枚。デジカメは378枚でしたがこの灼熱の大地とギラギラした日差しの中UVフィルターで撮影したものはどれも写りが良かったのでとても満足。とってもいい旅でした。
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UZBEKISTANへ [日記]

スペイン旅行記が前代記事未聞の30を超え、間に合わない様相の中、次の旅行の出発が迫る!

今度はウズベキスタン共和国です。

6月中には帰りますが、この慌ただしさ!


ウズベキスタン共和国大使館からのガイドから

ウズベキスタン共和国』O’zbekiston Respublikasi

首都 タシケント
面積 44万400㎢
住民 ウズベク人85% ロシア人5% タジク人4%
言語 ウズベク語(テュルク諸語属) 表記はラテン語だが新聞、紙幣はキリル文字。ロシア語がほとんど通じる。
宗教 イスラム教スンニ派 独立後は世俗教育で緩やか。他ロシア正教など。
気候 典型的な大陸性気候で夏暑く、冬寒い。昼夜の気温差も大きい。

91年ソ連崩壊で独立。

北はカザフスタン、東にキルギス、タジキスタン、南にアフガニスタン、トルクメニスタンに囲まれる。

シルクロードでは栄え、交通の要所だった所。


布製品、工芸品や民芸品など魅力あふれる国だ。
http://youtu.be/SO4_1z_MbgM
ウズベキスタン国歌
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飲み会幹事 [日記]

ひょんなことから飲み会の幹事を任された。覚書程度に書いておく。



会社の先輩のおめでたい席を用意しろと頼まれたのだが予定日が決まっていて一週間前と早速時間がなかった。

まず主賓にどんなお店が良いか希望を聞いた。とくにこだわらないので幹事が決めてよいということになった。

飲み会のお店と言ってもどこが良いのか分からないので会社の同僚先輩らに聞いて店を決定。

飲み会に誘う人数、名簿をある程度決める。(結局人数は増えてしまう可能性もある。)
お酒を飲める人、飲めない人も聞いておく。

飲み会を開く店に訪れ、メニューを確認後、交渉。
宴会コースがもしあればコース料理を確認。自慢の一品があれば料理の変更も交渉。

コースの金額がもし高い場合は金額を割り引くよりメニューを増やした方がよい場合もある。
金額は人数に比例するが多人数の飲み会の場合は主催の分だけ割り引いて交渉した。
飲み放題なら飲み放題メニューも確認。

座る場所、座席数に限りがあるならそれも。
支払いは現金かカードも聞かれる場合もある。

大体の人数と開催時間、金額、お店、メニューを決定後、飲み会開催の一斉送信。
参加不参加を1日前までに返信をお願いして人数を確定。お店に連絡。
ギリギリまで分からない人も一応参加を聞いておく。

飲み会当日は早めに来店して最終確認。
人数の確認は最後まで分からないのでお店の人に連絡。

簡単な乾杯の一言を言う。
飲み会のお金の回収は前か最中か迷うが飲み会の中行った。支払った人、金額を確認。
おつりは事前に用意しておく。

こんな感じでした。
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訪問 [日記]

訪問日の前日に亡くなった友人宅に電話をした。訪問時間と車で訪問するので駐車は大丈夫かを言う為だったが、今回は彼の祖母が出てくれた。ほか親族は仕事でいないので日曜なら大丈夫とのことだった。亡くなった孫も喜んでくれると言ってくれたが、言葉の裏に悲哀が感じてならなかった。

その後花屋に連絡をし、仏壇用の花を一対注文した。仏壇用の花は色を入れてもよいかなど色々とあるようだったが葬式ではないので、値段の上限を言ってお店にお任せした。花だけではいけないかと線香も買って包んでもらい、訪問の準備をした。


事前に色々決めていたので訪問日はスムーズに事が進んだ。午後、友人宅に集合して3人で少し話をして車に乗ってまずは花屋へ行って花を受け取る。黄砂が混じる雨であいにくの天気だったが予定時間調度に到着した。


ドアチャイムを押して出迎えてくれたのは彼の母親だった。亡くなった友人とは家が近いこともあってよく遊びにいっていたので彼の母親とも面識があり、彼の母親も私のことを覚えてくれていた。さっそく仏壇がある部屋に案内してくれた。先祖代々の立派な仏壇の隣に彼の顔が入った写真と携帯電話が飾られてあった。

さっそくロウソクに火をともしてくれて、線香も差して順番に手を合わせる。花と線香を差し上げ、涙ぐむ彼の母親を見るのはとても辛い場面だった。

コーヒーにケーキも出されてとても気を使ってくれる。
まずは実家の母親から彼の死を知り、高校時代の友人らに連絡を取って彼の死を悼んで訪問したいと計画し、葉書を出した事、お線香でもあげたいと訪問に至った経緯を言う。


あまり面識のなかった友人2人を紹介し、高校時代の話や彼の人柄や近況を話した。亡くなった友人は車が好きで高校卒業後、自動車整備の専門学校で2年間は松山に行った事。就職してスバルの自動車整備の職を持っていたが、仕事の不平や人間関係で悩んだり、休日が水曜だけなので辛いなど色々話してくれた。最近は山登りに興味を持ってブーツや装備を買ったりしていたようだ。彼の携帯に保存されていた画像をプリントしてアルバムにまとめていた。近況の彼の顔写真があまりないのでそれが辛いとまた話してくれた。

彼の家は元々農家で農具などを入れておく離れがあり、そこを改築して彼の部屋として使っていた。彼は11月に仕事の後で酒を大量に飲んで急性アルコール中毒で意識を失いそこで倒れた。朝、起しに来た母親が発見、すぐに救急車が呼ばれ、蘇生が試みられたが一度脈は戻ったもののそのまま急死してしまった。母親は彼の出勤前に弁当を作っていた後だったという。
余りに辛いことだったので近所の人には知らせず、近親者と職場の人たちだけで密かに葬儀が行われたそうだ。

高校の卒業アルバムを出してくれて話が弾む。中学の友人が数人訃報を聞いてすでに訪問していた事も話してくれた。実家の母に知らせが届いたのは少し遅かった様子。

1時間半ほど話してそろそろとおいとまとした。死んだ友人もどこかで見ているでしょうと励まして。車で出るギリギリまで送り出してもらった。友人が死んだ後ではこの家に訪問する事もないだろうと思う。友人と一緒に遊びにいくこともできなくなってしまった。

訪問後、近いこともあって私の家で短いながらも反省会をした。うちの母も同席したが友人二人と私にもしっかり生きていかないといけないと話してくれた。


私が思ったのはやはり人は一人ではないということだった。「人は生まれながらに孤独」という言葉を発した人もいたが、生まれてから一人で生きていけるわけでもないし、人は人と接して成長していく。人の存在の大きさはそれぞれだと思うが、幼馴染が死んでより一層感傷的になってしまった。死んで悲しんでいる人がいるなら一人ではないということ。

最後に友人2人と別れた。また再会できることを約束して。
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